録画してあった小津安二郎の最初で最後の幻の
テレビドラマ「青春放課後」(昭和38年)。小津と作家の里見惇が脚本を書いただけあって、なんとも味わい深いドラマだった。
京都で小料理屋を営むせいと、その娘千鶴。20代半ば?当時は婚期が遅れそうになっている娘という設定。
その店を贔屓にしている客、大学教授の山口と会社重役の緒方。二人は、せいの亡くなった夫と学生時代の友人だった。当時、3人でせいを争い合った仲でもある。
二人は、千鶴のことを気にかけていて、上京するという彼女をそれぞれの家に泊めてやったりもする。まるで自分の娘のように。
このあたり、ちょっとミュージカルの「マンマ・ミーア」みたい。
さて、本当の千鶴の父親は誰なんだろう・・・そんな疑問が会話のところどころに仕掛けられた言葉尻で気になってくる。
千鶴は、緒方の秘書の長谷川(佐田啓二)にときめいてしまい、思わず深酒をする。
気になり始めた長谷川。翌日、新婚の友人の家に遊びにいったものの、夫が帰宅するとデレデレになってしまう友人を見て、泊まる予定をやめて、思わず長谷川に電話をする。
ところが、出てきたのは女性。どうやら長谷川には同棲している相手がいるらしいと気づく。
彼の家に直接電話をかけてしまうというのは、ちょっと意外な展開だった。
二人で緒方の行きつけのバーで飲みながらの会話が、なんともやるせない。
すでに決めた相手がいるということを白状させた千鶴が、結婚という手続きを踏んでいない長谷川に対して「証文に収入印紙を貼ってないだけ」と言い、長谷川は「ぼくは青春なんてどうでもよくなってしまった。もうすっかり授業が済んだあとの・・・」という。それは、学校の放課後のようなもので、急に誰もいなくなって寂しさが募る様子に譬える。千鶴にとっては、友人の家でも話題に出たように、友人のほとんどが結婚してしまい、自分ともう一人だけしか独身が残っていない状況と重なる。
あー、その気持ち、よっくわかる〜。
あの年頃のなんともいえない焦燥感とか、寂しさとか。
緒方は密かに長谷川と千鶴がうまくいくことを願って引き合せたようだったが、すでに相手がいると千鶴から聞いて、申し訳なく思う。
このときに千鶴が「私、タイミングいつも合わなくて。去年の今ごろ、東京に来ていればよかったのよ」という言葉も、リアルだなあ…。
「私が中途半端になってしまって、私が好きだと思う人にはすでに決まった人がいるし、私を好きになってくれる人を私は好きになれない。ほんとタイミングがうまくいかない」というようなことを言うんだけど、脚本、すごすぎる。
東京に夢を抱いてやってきた千鶴だったけれど、結局、京都に帰っていく。
最後のシーンは、いつものバーでの緒方と山口。
「おまえの娘にしちゃあ、出来すぎだ」と言い合う二人。
このとき、山口が早口で言う言葉。
なんだろうと思い、ネットで検索してみたら、ちゃんと書いてくれている人がいた。
「階前(かいぜん)の梧葉(ごよう)すでに秋声(しゅうせい)」
中国の儒者、朱熹による詩「偶成」からだそうで、「少年老い易く、学成り難し、一寸の光陰軽んずべからず」の後半部分で、「未だ覚めず地塘春草の夢、階前の梧葉、己に秋声」
意味は、「庭の前のあおぎりの葉にもう秋風が吹いているではないか、時間は再び繰り返さないのだ 今しなければいけない事を、この今、懸命に励もうではないか」といった意味なんだそうな。
50年前の人は、こんな言葉をテレビドラマでちょろっと言われて、わかったんだろうか。
これぞ教養だよね。
そして、ドラマは深い余韻を残しつつ、終わる。
全編会話に支配されたまさに小津ワールド。
何気ない会話の中に、いろいろな確信的なことがちりばめられ、人生は、こんななんでもないようなことの積み重ねの中に、人生を左右するようなことがちょこちょこ入ってくるという様子が丹念に描かれている。
小津ワールドの時間の流れ方は、人生そのものだなあ。
画質はよくないけれど、1963年のあのころと、今と、人の心も、人生の悲喜こもごももなにも変わっていない。
心にいつまでも残るような深いドラマだった。
このドラマが放映されたのは1963年3月21日、小津が亡くなったのが同年の12月12日。
放映されて50年後、私も、こんなドラマが沁みる年頃になってしまったのねぇ・・・。
小林千登勢さんの美しさに見とれてしまった。
そして、長回しの撮影でも、自然な会話を延々とする小津組の宮口精二と北 竜二。
まるでその場に同席しているかのようなリアルで、自然な映像空間が紡ぎだされる。
はあ、なんかいいなあ。どんな特撮も、高画質も及ばない映像の世界だわ〜。