2014年01月15日

観劇日記 Tribes

新国立劇場小劇場で「Tribes」を観劇。

サイトによると、
「『Tribes』は、先鋭的な作品を数多く生み出すことで世界的に有名なロンドンのロイヤルコート劇場で、2010年10月に初演された作品です。その後、オフ・ブロードウェーでも上演され、高い評価を得ています。

耳の不自由な末子ビリーは、初めてできた魅力的な彼女シルビアを家族に紹介するが、その彼女も実は耳が不自由だった。これをきっかけに家族間に不協和音のさざ波がたちはじめる。

現代の家族像を「言葉」という現象をひとつのカギにして、親しかったはずの人たちのコミュニケーションの危うさが、繊細なセリフと表現(手話)で描き出されていく、刺激的な一作です」


自分のことだけをがなり立てる両親、兄、妹の中で、一人静かにいるように見えるビリー。
外で出会ったシルビアに手話を教えられ、世界が広がる。
その世界に夢中になるビリー。

家族の会話を聞いているうちに、私たちのいる世界は、こんなに騒々しいのかと思った。
テレビを付けっぱなしにしていると、世界とつながっているような気になるけれど、実は思っているほどつながっていない。それと似ているのかも。会話をしているようでしていない。先日の「かもめ」も、同じようなテーマだったっけ。

シルビアも難聴者だけれど、症状が進行している状態。
ビリーが新しい世界だと思ったところは、シルビアにとってはすでに馴染みのある世界で、その世界でしか生きていけなくなる恐怖を抱えている。

その恐怖は、いつか誰もが到達する高齢者の世界とどこかでつながっているような気がした。
どんな世界に身を置いていくのか。それを自分で決めていくのが生きる力なんだろう。
ビリーは、その力を持ったばかりで、まだぎこちない。

2幕の行き先が見えず、固唾を飲んで舞台の進行を見守った。
最後に兄が「愛していると手話でどうやるのだ」とビリーに問い、ビリーが手話を教えるが、兄はビリーを抱擁する。その抱擁を解いて、ビリーは客席へと消えていく。

結局、わかりあえないまま、なのか、わかりあえても、人は孤独なのか。
もやっとしたラストだった。

兄は、弱者のビリーという存在があるから、自己を保っていられる。ビリーが自らの道を歩み始めると、兄が言葉を失い、ドモリの症状が出てくる。
他者との関係というのは、依存しあうものなのだ。

父の存在はかなり影が薄く、母の存在が大きい。
母は手話をビリーに教えずに、言葉を話せるように根気強く教えた。それはマイノリティで終わらせたくなかったからなのかも。でも、手話を教えてくれなかったとビリーは母を責める。世界はなにで開かれるのか誰にもわからない。面白いなあ。

時折挿入される音楽の美しさが際立つ。
音楽がざわめきにしか聴こえないなんて、なんという残酷な世界。
それだけでもお互いのことをわかりあうということの難しさを実感させられる。

いろいろな捉え方、考え方ができる作品。
こういうのって、役者は大変だろうなあ。
中島朋子のピュアそうでいて、他社との距離感を微妙に替えていくシルビアが見事だった。

田中圭くんは、手話とセリフが混じり合うとても難しい役をよくやっていたと思う。
彼は色気があるなあ。
映像で観るよりも、いいと思った。これから、いろいろな役を見ていきたい。
そういえば、昨年の銀河英雄伝説は、私にとってはトホホな作品だったけれど、彼のヤン・ウェンリーは印象に残った。
歌とか歌わないのかな?(笑

サイトの文句にあるように、とっても刺激的な舞台だった。
特に2幕の緊張感は、舞台を見る醍醐味を味あわせてもらった。
ただ、舞台がかなり暗いので、1幕はちょっと眠かった(笑 


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posted by Luna at 23:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 極私的観劇日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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